書肆つづらや

矛盾はないが零れている

2023年01月10日

「市場で仕入れてくる」というのは古本屋の場合「市場で入札して競り勝ったものを買ってくる」という意味になるのですが、私の場合、仕入れる頭と(持ち帰った品物を)調べる頭がまるで別物なので、次号目録品選定のため未着手品の山に手をつけるとたちどころに「いったい私はこれにどうしてこんな札を入れたんだ?」と理解に苦しむような品物がゾロゾロ出てきます。

「調べる」ほうの頭は、たとえば巷で「師」と呼ばれた人々が自らの思想や持論を他者に滔々と説く類の本、とりわけ江戸時代の儒者が遺した書翰、草稿、ましてや論稿写本の類には往々にして調べる前から気乗りせず(…古本屋としてなんと残念な感性でしょう!)、グズグズと脇見ばかりして読みが一向に進みません。

しかし哀しいかな私の場合、経験上どうやら調べる頭より仕入れてくる頭のほうがいくらか上等に出来ているので、「なにがおもしろくてわざわざこれを仕入れてきたんだよ!」とブツクサ文句を垂れながらも観念してエイヤッと文字の海に飛び込むことになります。

 

そんなわけで、年始の余勢を駆って今度は次のような一冊に飛び込んでみました。

 

京都で遊学中の儒者が弟子や同輩諸氏、さらに国許に暮らす一族(士分)の人々に宛てた私信約三十数通を写し控えたもので、巻頭に「大丈軒文簡草稿」、題簽に「文簡艸稿 全」とある半紙本、見たところ江戸後期の転写本でしょうか。書翰本文のうち本題にあたる部分だけを写し集めているので、残念ながら年記はなく、巻末に奥書や書写識語もありません。内題に「大丈軒」とあるのだから、おそらく備前岡山池田家に招かれて後に閑谷学校の教授を務めた小原大丈軒が筆者かと思われますが、なにぶん国書総目録等々で類似写本が見当たらず、さてさて本当に当人で間違いないのでしょうか?

こういう場合、本文の内容と私の推定の間に矛盾がないかどうかを調べてみなければなりません。矛盾の可能性をひとつひとつ潰していく地道な作業です。初丁からいきなり弟子に滔々と道理を説く生真面目な(…そして少々辛気臭い)本文をコツコツと読み辿り、そこここの小さなひずみを一つ、また一つと見つけては洗い出していく、いつもの“楽しい”作業です。ハァ…(ため息)

ともあれ、エイヤッ!と飛び込んだのが三日前のこと。

 

結論から申しまして矛盾は概ね見当たらず、収録された書翰本文は寛文九~十年の二年間に小原大丈軒が綴ったもののようです。いやいや矛盾がないどころか、読み進むほどに行間から彼の情緒がこぼれてくるような、余情に満ちた本でした。「朝倉丈軒」と名乗る齢三十三歳の儒者が、学問仲間から届いた江戸の便りに大いに刺激を受け、燻ぶりかけてていた(失礼!)京都の町でありったけの活力を振り絞り四方へ向けていよいよ静かに放電し始める、まさにそういう瞬間を捉えたような、なんともアクの強い魅力的な一冊です。

語られた言葉の向こうがわに学問環境の潮目のようなものを感じて俄然興味津々となりましたが、さて、その手解きには何から読んだものでしょう? 先の長いたのしみがまた一つ増えたような気がします。