書肆つづらや

丸腰で読む?

2024年09月15日

先週末からほぼ1週間、日中まるっと事務所を空けていた。

11月恒例「古典籍展観大入札会」の目録編集が始まったからだ。

全国のご同業が東京古典会にお寄せくださった千数百点にのぼるとびきりの優品原稿を一冊の豪華目録にレイアウトすべく、30人前後の古本屋が東京古書会館の一室にギュギュっと集い、各人に割り振られた作業を粛々と進める日々が、とうとう今年も始まった。

その末席で、ボンクラな私は冷や汗かきつつあたふたと過ごしていた。

 

毎年この大市目録編集組に駆り出される時期が来ると、夏が終わってしまったことを痛切に実感する。連日こんな猛暑続きなのに、それでも夏は去ってしまった。事務所に戻ると、10月の自店目録に採録するため8月中に調べを終えるはずだった手強い品物たちが手つかずのまま棚に積み残されており、憮然としてこちらを睨め付けてくる。…これはまずいぞ。

 

ともあれ大市目録の編集作業は初校まで約2週間の猶予があるので、早速、中断していた「日記」を再び読み始めた。

 

この「日記」、江戸時代に栄えた某大寺院に書記役あるいは右筆として仕えた俗人S氏が、幕末から明治初期にかけて職掌と私事に関するあれこれを日々綿々と綴った個人備忘録であるらしい。「らしい」というのは、まだ腑に落ちないことが多いからだ。そもそも本書の表紙や巻末には記主の氏名や属性に関する識語がまったくみられず、本文の記載内容から記主の立場を明確にするまでは、何を言ったところで据わりが悪い。中断前に読んだわずかな範囲内でいくらか絞り込んでみたものの、先は長い。これからどんどん読み進んで新たな属性を発見し、推定の矛盾を廃し、少しずつ精度を上げていく。まだそんな段階なのだ。

 

平均5㎜四方の筆文字で埋め尽くされた個人の備忘録はおそろしく手強い。

なにが手強いって、まず第一に読み始めはサッパリ読めない。

さながら睨めっこのような数時間、数日間を経てようやく筆のクセが飲み込めてくると、少しばかり順調に読み進めるようになる。

今回はそのタイミングで大市目録編集週間が始まり、こちらの作業は中断となった。

 

そういうわけなので、再開しても筆跡カンを取り戻すまでにまたしばらく時間がかかるであろうことは覚悟していた。

幸い世間は2週連続の三連休である。巷間が連休モードに包まれるとき、のんびり閑かなこの界隈は小店にとって絶好の仕事日和となる。大丈夫、焦らずやろう。

 

ところが、である。

驚いたことに、開いた途端にすんなり読めるではないか。

もっと正確に言えば、中断前よりスラスラと読めているような気がする。

文字がハッキリ、くっきり、少し大きく見えさえする。

なんだこれは? これはいったいどうしたことだ?

 

一夜明けて今朝、台所で本日の昼弁当を詰めながらハタと気付いた。

そうか、この1週間で参考資料を全部読み切っておいたのが効いているのだ。

 

いつもは初見のあとすぐに本文を読み始め、読みながら少しずつ関連資料を探して読んで、双方を行ったり来たりしながら少しずつ理解を深めていくのだが、今回は9月のスケジュールがタイトになることを見越して、初見後8月中にまず関連資料を広範囲にたっぷり収集しておいたから、大市目録編集が始まってからも毎日早朝と就寝前に集中して資料を読み込んでおくことが出来た。

 

それにしても今回のように頭の中をしっかり耕してから史料の本文に飛び込むのと、無鉄砲に丸腰で史料の本文に飛び込むのでは、書き文字の見え方さえこんなにも違ってくるとは、ほんとうに吃驚仰天だ。

冷静に考えてみれば、ものごとの進め方としては単純に今回が順当だ。

思い返すと、ただでさえ同業のよそ様より格段に仕事が遅い(=だから古書目録がいつまでたっても薄い)ことが店主のコンプレックスとなっているつづらやとしては、手強い品物を扱う時ほど初見の後かなり焦ってやみくもに品物の本文にかじりついてしまうところがあったかもしれない、いや、あった。これはよくない癖かもしれない。

自戒をこめて「急がば回れ」だ。

小学生でも知っている標語が沁みるよ。

 

 

追記

ちなみに、昨日スムーズに読めたことに小躍りして「もしかしてこの品物、この調子でスイスイっと採録出来ちゃったりする?」なんてちょっと調子に乗っていた今朝の自分を嗤う。

順調に読めるようになったらなったで、読むほどに、知るほどに、待ってましたとばかりに「腑に落ちない」ことがあとからあとからジワジワと滲み出てくるありさまだ。…そりゃそうか。

そんなわけで、本日もつづらやは仕事が遅かった。無念。