書肆つづらや

積みなおす

2023年04月15日

月曜日にやっとのことで入稿した56号目録が、昨日はやくも刷り上ってきました。

1週間前のちょうど今頃は、時計を横目にまだまだ気になるあの箇所この箇所をヒリつく心持ちで調べ直していましたっけ。

時間ぎりぎりまで諦めが悪いのはいつものことですが、今回のラインナップには私にとって手強い記録類二点が控えていたため、仕事場に引き籠って最後の最後まで苦しみ抜きました。

一点は、仕入れた時点で「この留帳はたぶん『それ』だな」と感知したため長いあいだ着手できず回避してきた明治初期の日誌。

もう一点は、巻頭を見て達者な記述を備える整った覚書かなと油断していたところ、いざ読むとその闊達自在な語りの内にとんでもない熱量の憤怒と怨嗟、懐旧と慈愛が綯いまぜに封じ込められていた江戸後期の自伝的覚書です。

 

個人的な感慨ですが、日記はときに厄介です。

うちは江戸時代のものを中心に扱っているので、日記といっても同僚や後代に対する申し送りのような性格の公的あるいは準公的な内容のものが多くて、それらは一定の安定した連続性の内側にあるため本屋としてもある程度安心して扱える品物といえましょう。

また、たとえば巷に数多残る参詣道中記の類は私的な記録ではありますが、見たところその多くはご自分の子や孫が「使う」ことを考えて書かれたもので、記主が文芸を嗜む趣味人でもないかぎりその内容は基本的に安心安全の太鼓判。

いずれにせよ、誰かに見せて使ってもらうことを前提とした無駄のない整った本文が基本で、そうした紙面の端っこにチラリと覗く私的感慨の記載はまるでえくぼのように魅力的で、こういう日記を扱うのは基本的にとてもたのしいです。

 

…ですがもちろん例外がありまして

たとえば大小の時代的な変節や災害、変事等に見舞われた人の日記は時として先に述べたような安定的連続性から逸脱しており、もはや自分のためだけに書き留めずにはいられなかったその私的な記録に初見で対峙する時、私は覚悟して用心深く身構えます。だってそういう日記をご本人の筆跡で読むのって、そりゃもう心底おっかないですから。

「おっかない」には2種類ありまして、まず第一に、自分の無知ゆえ背景をよく把握できないまま読み進む時のシンプルなおっかなさ。もうひとつは、記主の主観的記述に気圧されてミスリードされるかもしれない(本屋としての)危うさです。

いずれのおっかなさも日記に限らず、一人称で述べられた私的な記録全般につきものかもしれません。

 

さて、先に述べた今号の2点はまさにこの「例外」のほうの記録でありまして、調べても調べてもスッキリと理解できず、調べれば調べるほど自分の無力さを思い知り、底知れない「わからなさ」がついには他の品物にも飛び火して元見た景色がグングン歪みはじめて、もはや「目録のカタチに括る」とか「適正な値段を付ける」といった職業的ビジョンがガラガラと崩壊していくようなあの動揺と混迷の中、よくまあふんばって入稿にまでこぎつけたものです!

 

そういうわけで、とりあえずまずはよく眠りよく食べて、崩落した瓦礫を積み直すところから始めております。

こういうのいったい何度目だろう?

ホントに成長しないなあ…